「分身を描く」
以前、「物書きとしてルポを書く事はとても重要な事だ」というような事を言われた事がある。
此処で言う「物書き」とは、フィクションライターの事だ。つまり小説や戯曲、脚本家というヤツ。私が末席を汚しまくっている人たちのこと。
創作するという事の前に、事実を事実のままに書くという事ができるかどうか、それが創作するにあたってとても必要な力になる。というような事だったと思う。
「事実を事実のままに書く」事の何処が難しいのかと思うかもしれないが、出来事を書く際に主観を入れてはいけないのだ。ありのままを、ありのままに書く。
自分はこう見えた、こう思ったと書くことなく、全ての出来事をどこにも偏らず、どこの感情も出さず文章にだけしていく作業なのだ。
「空間認識能力」と少し似てるのかなと思った。違うか…まあ、それはいい。
確かに主観ばかりでは日記と変わらないのかな。面白い人間の日記ならカネを出しても読もうと思うが、創作物だと思って金を出して観たモノが、浅い人間の日記だった時などは腹に重たいカンジがムズムズして、酷く嫌な気分が後を引く。
何故か、そういう局面は頻繁だ。
笑い飛ばせる余裕があればいいのだが、時間もカネも限りがある。と、四十を前に再認識した昨今は、どちらも効率的に使えるオジサンになりたい。と、切に思う。
さて本編。
「ティファニーで朝食を」で知られる、米現代文学の奇才 トルーマン・カポーティの最後の作品「冷血」を、彼が完成させるまでを描いた’06年の賞レースを席巻した作品。
主演俳優の怪演ばかりが取り沙汰される本作だが、「ノンフィクション・ノベル」というジャンルを作り出したフィクション作家の「恍惚と苦痛」に末席作家の琴線は触れられっ放しだ。
ルポルタージュなのか小説なのか。
無学な徒は原作を読んでいないが、批評などでは「極上の小説」として絶賛されている。確かに抜粋を読むと、会話の描写などは小説的というか演劇的な言い回しにとれるところが多い。前述のルポの云々とは多少違いが感じられる。
主観を入れつつ事実を曝け出す。映画後半の作家の精神状態は修羅だった。
この原作を模倣した直木賞を受賞した女流作家のベストセラーは記憶に新しいが、見事なルポルタージュ形式ゆえに、どの視点で読み進めばいいのか、どの感情で捉えればいいのか探し出せず、そっと頁を終えた私も記憶に新しい。
芝居を創る時、自分の思いや経験を入れることが多い。完全創作という作業ではない。いや、そういう事を創作と呼ぶのかもしれないが。本に、舞台に描く人間、いや、人で無い場合もあるが、それは自分の分身である。
善も悪もない。ただ晒された自分の分身たちだ。
本編で作家は自身の作品の主人公たる死刑囚と不器用に心を通わせる。彼の中に自分を見ていた。その彼を描いていた。自分の分身として。刑が執行されなくては作品は完成しない。
分身の死を恐れながら渇望する。
作家は「冷血」以後、一冊も完成する事なく、20年後に死んだ。
安易に「分身を描く」と題してみたが…分身を描き、稚拙な日記を羅列することには覚悟が必要だ。
こういう文末になる事も予期できず、筆を置く自分の浅はかさを晒す意味も込めて、敢えて表題は訂正せずにおく。
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「徳留映人」
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