「アワーミュージック」
2004/仏.スイス
ジャン=リュック・ゴダール




「無知」
ゴダールの映画は難解だ。と思っている人は少なくないだろう。彼は映画の中に数々の本や詩、映画などで語られる言葉を引用している。そして、そのほとんどを僕は知らない。「もっと本を読みなさい」「詩に触れなさい」「良い映画を観なさい」ゴダール作品を観る度に、スクリーンの向こうからゴダールの言葉を聞き、自分の無知に途方に暮れる…という思いを何度となくしてきました。「無知は罪だ」と云ったのは、誰だったか?それすらも出てこなかったりして、ダブルパンチ的な落ち込みを味わったり…

やはりテレビ世代というか、日本の芸能社会で育ってきた僕たちとしては、ただその場に留まっていると、ヨーロッパ文化というか、アメリカ以外の文化や芸術を知る事は出来ない。自分の足で、頭で、手で、それに触れに行かなくては、アメリカの望む「我が友・日本人」の出来上がりなのだ。アメリカの情報過多がすべて悪いとは云えないが、テレビが映画の対極に位置することは誰もが認めるところだろう。テレビと映画の「リアル」をみれば一目瞭然だ。テレビのリアルは情報。映画は創作だ。情報は分かりやすさが求められる。白か黒か、右か左か、善か悪か。曖昧なものはすべて切り捨てられる。この花から何かを想起させる、といった暗喩が一切ない。直喩しかない。いや、出来ないんです。9.11やイラク戦争の映像はリアルなのか?そこで起こっている事には違いないのだけれど、なにか現実的ではない。「映画のようだ」と言う人もいたが、映画ではああいう画は撮らない。撮れないのではなく、撮らないんです。

リアルなものはリアルではない。パラドックスのようだけれど、こうしか表現できません。映画におけるリアルさの追求は創り込みです。リアルなものを作為的に創るという行為が映画なのだと思います。一方で、リアルだからいい訳ではない。ということも映画の重要なファクターだと思います。前述の「映画のようだ」といった人たちは、おそらく直喩しかない映画しか観た事がないのでしょう。

本編は、夥しい戦争映像のモンタージュが繰り返される「地獄編」から幕を開け、現代のサラエボを舞台に「本の出会い」という講演にやってきたゴダール本人と、それに参加した女子学生との魂の出会いを描く「煉獄編」、そして、殉教した女子学生が辿り着く「天国編」へと昇華します。講演中に、ゴダールは「切り返しは映画の基本」と、学生たちに映画の話をしますが、「デジタルカメラで映画を救えますか?」という学生の問いに沈黙してしまいます。この時の、逆光のゴダールの顔のカットがとても印象的なシーンです。

ダンテの神曲と化した本編の引用は、モンテスキューで始まり、チャンドラーで幕を閉じる事を、その時の僕はまだ知らない。自分の無知さに思わず目を閉じた僕に、ゴダールの声が聞こえる。「努めて物事を見ること。努めて物事を想像すること。前者は“目を開けてみよ”、後者は“目を閉じよ”」僕は目を開ける。「無知は罪」は、ソクラテスか…



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